主体性って何だろう? その②

おたよりの「主体性」を書いていて、まるで迷路に入り込んだようです。

仕方がないので、家の掃除をしながら、ジャガイモのを皮をむきながら、庭で雑草を抜きながら、主体性って何だろう?と考えています。

そもそも、日本で言われている「主体性」は、「本当の主体性」の話なんだろうか?というところで一番に混乱しています。

「主体性」の例が実際に周りにないような環境にいる人たち(特に日本の保育界は、主体性とはかなり離れたところにある印象です)は、どういった主体性をイメージしているのでしょう??

0歳児がおむつ交換の後に手洗いに向かうのは、能動的に、積極的に行っている行為かもしれないけれど、その行為自体を主体的とまでは言えないのではないか??とか

常に積極的で、何にでも興味を持って、質問をし・・・・そういう子が主体的と評価されやすいけど、本当にそうだろうか?とか

そして、静かに何かを考えたり、慎重に行動する子は、あの子は主体的ではない…と勘違いされやすいのではないか??とか

考え始めると、迷路に入り込みそうです。

相手の言うことを鵜呑みにしないのは良いとしても、「でもさー」「それはさー」と何にでも反応する子にもいろんなタイプがいます。

考えもせずに何でもかんでも思ったことを口に出している子

本当に「でもそれは、そうなのかな?」と疑問を口にしている子

「とりあえず間違いを探してやる!!」と違った目的があるらしい子

単に大人との関係が悪い子・大人や相手を試している子・・・

同じように見える反応にも、その子一人ひとりの性格や性質、その時の状況が関係していると思うのです。

何かを選ぶにしても、パッパッと選べる子もいれば、じっくりと選ぶ子もいます。中には迷ってしまう子もいるし、面倒になって周りに合わせる子もいます。でも、それがその子にとってはどうでもいいようなことなら、そこだけを見て「主体性がない」とは言えないと思うのです。

(世の男性は「今日のごはん何がいい?」と相手に聞かれて「何でもいい」と言って「主体性がない!!」と言われたら憤慨しますよね。どっちにしたって作り手が食べたいものを作るのに・・・と。うちだけ?? ^^;)

そして、世の中には、これは絶対大切!!と思っていても、その他のことはまあどうでもいいかな、という人も結構いると思います。みんながこだわりながら生きているわけではないのですね。そういう人たち(子どもたち)にとって、いちいち選びなさい、と言われるのはなかなかしんどいですねー。

「主体性」がいわれるだけに、余計に主体性が軽く考えられているのかなーという気がしています。

軽く「主体性のある子どもを育てる!」と言えるほど、主体性は軽くないですよ。めちゃくちゃ重いです。

めちゃくちゃ重くて、大人には責任があります。

この、主体性のない大人たちが生きる社会に、主体性のある「私はこう思う」と感じる子どもたちを育ててしまうことに。

「私たちはこう思う」という社会で「でも、私はこう思う」と思ってしまうことがどれだけ辛いか、大変か。その大変さをバックアップする覚悟で「主体性のある子どもを育てる!!」と言ってほしいと思うのです。いつもの、日本の保育界の流行り言葉ではなく。

おたよりの内容は、「主体性とはこういうものです!」ではなく、「主体性にはこんな視点もありますよ」と一緒に考えられることを目的にしようと思っています。みんなが主体的に、自分自身で考えられるような内容を。

コメントを残す