人生、何事にも無駄なし
ハンガリーの片田舎に住んでいると、いろんな仕事が舞い込んでくる。その中でも、日本語を教えるという仕事は、特別に関心のあるものでもないのだけれど、結果として、いろいろなことを学ばせてもらうことになった。
ほとんど日本人がいないようなところに住んでいると、時々、日本語を勉強したいという人が現れる。もしくは、日本語を教えてほしいという教育機関が現れる。
今よりももう少し時間のあった時、保育園児から大人まで、いろいろな年代と感心度(私は日本語を学ぶために生まれてきたのです、というぐらいの関心度と積極性でマスターしていく人たちから、いったい何で僕らが日本語を学ばないといけないの?という関心度ゼロの人たちまで)の人たちを教えていた。
何を学ばせてもらったか。
① 日本語を
日本人だから日本語を教えられると思うのは大きな間違いで、日本語を教えながら、まずは私自身が日本語の基本を学ばなければならなかった。”国語だけ”は得意だったのだけれども、どう思いだしてみても、こんなに丁寧に文法を学んだ記憶はない。文章の仕組みを分解したり、組み立てたり、理論的に文章を考えてみるという、ハンガリーの小学生のような文法の授業を受けた記憶はない。
国語・日本語が好きだし、得意だったのは、単に本が好きで、読書量が多かったおかげなだけで、決して ”日本語の知識” があったわけではないということも、しみじみと教えられた。
だから、保育園で子どもを毎日見ていて、一緒に遊んで、子どもが好きだし、子どものことは何となく分かる、というのと、そのことを説明したり、具体的に考えるというのは違うのだろう。
保育をしています、保育士です、ということと、保育を分かっていますというのも、必ずしもイコールではないのだろうなと思う。
② 学び方を
いろいろな年の子どもたちを教えていた分かったのは、ハンガリー語の基本が分かっている人たちに教えるのは楽だということだった。ハンガリー語の基本を日本語に応用するので、日本語の仕組みを理解しやすいらしい。基本があいまいなまま話せるようになっても、いい加減な話し方になる。間違っていることを伝えても、よりどころになる知識がないと、訂正を理解しにくい。最終的には、訂正ばかりされて嫌になるか、伝わっているのだからいい、となってしまう。
それよりも早い時期の子どもたちには、逆に、仕組みを教えていこうとすると興味をなくしていく。それよりも、モチベーションをいかに維持していくかがポイントで、日本語の時間は楽しい!と思い続けていれば、自然といろいろと残っていくらしい。結果的には、それが、のちの文法を学ぶときの基本になっていく。
小学生以降のいろいろな子どもたちを教えていて思ったのは、勉強の仕方を知っているなということ。これは大きい。
保育を考えた時も、日本とハンガリーの基本に対する考え方を考えさせられる。
基本を知らないままでも、日本では保育園で働ける。でも、基本を抑えていなければ、積み重ねていくものが揺れ動き続ける。判断をくだすよりどころがない。基本さえ押さえていれば、判断をくだしやすい。応用がきく。いろいろな場面で、いろいろな子どもに対して応用したり、新しい知識や方法を選んで適応させることができる。
子どもたちの手の細かな骨が本当にしっかりとするのは、小学校1,2年生を過ぎた頃。そういうことを基本として知っていれば、2歳で箸を持たすべきかどうかを悩む必要はない。でも、乳児期は手先をさかんに使い始める時期だとも知っていれば、いろいろな遊具を用意することができる。それが、結果として、幼児期後半に箸を持てる基本を育てることになる。
基本が分からなければ、応用の仕方も分からないかもしれない。新しい知識をそこに適応させていいのかの判断もあいまいになる。それが合っていなかったとしても、合っていないことに気がつかないか、合っていないことを指摘されても理由を理解できない。
日本の保育士養成学校で、しっかりと基本を教えているところはほとんどないと思う。だから、新人の保育士たちは、現場にでて苦労をする。子どもたちと関われてうれしいというモチベーションよりも、経験を積み重ねて自分の力にしていける楽しさよりも、あなたたちはこんなにいろいろなことができないし、知識としてもない!と怒られる経験の方をつむことになる。怒られると同時に、分からないところを丁寧に教えてくれるならともかく、それがないとなると、モチベーションはどんどん下がって辞めたくなってしまう。
今の若い保育士たちは・・・という人がいるけれど、そういう若い人たちを育てたのは私たちだ。私たちが育てた結果なのだから、私たちが育てきれなかった、彼らに不足している部分を育てていかなければいけない。学び方を、学ぶための基本を教えていかなければならない。
③ 教え方を
保育園児から大人までを教えていて、しみじみと思ったのは、教える方法というのは千差万別で、相手に合わせられなければ、何の意味もないんだなーということだった。
保育園児であれば、歌やあそびをたくさん行うことで、自然に言葉のリズムやイントネーションを身に付けていくことができるけれど、これは小学校高学年になると通用しなくなってくる。遊戯的な楽しめる部分と同じくらいに理論的な部分も入れていかないと逆に退屈し始める。
同じ高校生や大学院生でも、とにかくたくさん会話をして行くことで自然と身に付けていく人と、きっちりと教科書通りに進まないと理解しにくい人がいる。
カードやイラストをたくさん使った方が良い人もいれば、文字で、理論的に入った方が良い人もいる。
これを逆に対応してしまうと、本当ならのびる人ものびなくなるか、やる気をなくす。
保育も同じだ。みんなに同じような伝え方をしても伝わらないし、伸びていかない。
そして、いろいろな生徒を教えていて分かってきたこと
④ 本当に関心のある人は、どんな教え方でも伸びていく、ということを
本当に感心のある人というのは、どんな状況でも、学び続けている。誰のせいにするわけでもなく、自分が学びたいから、関心があるから、学び続ける。教え方が悪くても、教科書が悪くても、環境が悪くても、好奇心の方が強いので、どこかに楽しみを見つけ続けられるらしい。
保育でも、本当に保育が好きな人は、自分なりの道を探し続ける。保育が好きだから、子どもが好きだから、自分なりの道を探し続ける。
次のは日本語の指導とは一致しないかもしれないけれど・・
⑤ もっと環境が整っていれば・・・
日本語を勉強しようと思うのも、勉強し続けられるのも、どこかに育った環境が影響している。もう少し家族の背景がちがければ今頃・・・と思う生徒は何人もいる。それは、経済的な面だけではなく、励ましや、子どもが関心を持っていることへの興味や協力の姿勢。
もし、保育士養成校がもっとしっかりしていれば、そして、日本の保育園が、せめて、子どもを考えた時の基本の基本である「子どもの人権」をしっかりと守ろうと、せめてその点だけでも考えて保育をしていれば、もっともっとたくさんの素晴らしい保育士さんたちが現場に残っているはずだ。そして、育っているはずだ。
もし、日本の保育士養成校で基本をしっかりと教えてくれていれば、今頃は、日本中に地方の特色を生かした、そして、子どもの人権もしっかりと守った保育が広がっているはずだ。
まちがっても、猛暑の中、フラフラの子どもたちにただまっすぐに立つことや行進することを練習させることなどなく、大人でさえできないピアノを前に子どもを叱咤することなく、壁にぴったりとくっついで座りなさいなどと1歳児にいうことなく、もしくは、雨の日も風の日も外で過ごすのが健康なのです、などということもなく・・・子どもにとっても大人にとってももっと自然な保育が広がっているのではないだろうか。
・・・・・・・
“どうして私はハンガリーで日本語を教えているのだろう・・・・”と首をかしげながら、あの手この手を練りながら日本語の授業の準備をし、日本語に関心などまったくない子どもたちとも奮闘し(家でもバカ息子どもの相手をし、学校でも似たような子どもたちの相手をしなければいけなかった悪夢の日々・・・学校の先生ってなんて偉いのだろうと心底思いました)、時には、”どうしてそこまで日本なの??”と首をかしげながら教え続けている日本語。
でも、同時に、人生、何事にも無駄はないんだなーということも教えられている。