ぼくの好みじゃない

三男「ぼくには、どうも日本の音楽ってピンとこないんだよね。お父さんもK(二男)も、車のエンジンをかけてJ‐popが流れると、なんだこれはー!っていっている」

私「私は、車のエンジンをかけて、テクノが流れてくると、なんだこれは―!!と思うよ。

 J-popを好きにならなくてもいいけど、あんたたちは、きっと日本人としての私を一生理解しないだろうね。お父さんなんて、早々にあきらめたみたいだし」

三男「お母さん、円満な家庭を築くコツは、早々にあきらめることだよ」(^^)/

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次号(2018年春号)のお便りのテーマは「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」。

というわけで、頭の中でこのテーマがぐるぐるまわっているのだが、例えば、「自分の意見を相手に伝える」はどこに入るのだろう。

「ケ 言葉による伝え合い」というのはあるのだが、「保育士などや友達と心を通わせる中で・・・」とはじまり、「言葉による伝え合いを楽しむようになる」で終わっている。

心を通わせる中で語彙や表現を身に付けていく、という意味だとは思うけれど、どうにも「心を通い合わせる」が気になる。言葉のやり取りには、心が含まれているとは思えないただの伝達や厳しさの含まれた場合もある。

言葉の伝えあいを楽しむ・・・・もちろん通じ合うことのできる楽しさもあるが、不本意ながら伝えなければいけないことや相手と違う意見表明もしなければいけない。

「言葉による伝え合い」が、「単純に楽しくおしゃべりをする」にとどまらないのなら(とどまってほしくないが)、自分の考えの伝え方という技術的なことも含まれていなければならない。

意見や感性の同じ人と出会えることのむずかしさを考えれば、大切なのは、自分をしっかりと保ちながらも、相手の存在も受け入れ、接点を見つけようと努力することで、そのための会話の基本的な技術(スピーチの技術ではない)は、生きていくうえでは欠かせない。これは、子どもの世界であっても同じはずだ。 

相手の意見を尊重しつつも、自分の考えを伝える方法を知っていれば、意見のやり取りが可能になり、それがあってはじめて建設的な会話が成立する。

会議や研修という場でもよく見られるのが、一方的なお説教、もしくは、上の人のお話をありがたく聞かされ、それをただひたすら黙って聞いてやり過ごす・・・・という光景だが、保育指針の「言葉による伝え合い」には、こういった光景を何とかしなくては、という想いも含まれているのだろうか。

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