教科書を信じるな・・・うーん

ノーベル賞を受賞された京大の本庶先生の「教科書を信じるな!」

“今年の一言”に選ばれそうなインパクトを持っていましたね。

とはいっても、これをどう解釈するかは難しいなーと思いました。

確かに、日本の、特に低学年の教科書には「何の意味があるのやら・・・」というものが載っていて、「信じるな」以前に、「これは本当に教科書なのか?何が目的の”冊子”なのか?」と思わせるものが少なくない。

つまり、「この程度のことを学びとは思うな」というのは納得できる。

もう一つ、常に未知なるものを探求し、新しい視点で解釈し、世界を切り開いていくことなく学問はあり得ない…という点でも、本所先生のおっしゃられることは「確かに」だ。

教科書にあることが正しいとは限らない、というのも分かる。社会主義を経ているハンガリーのような国では、年齢層によって学校で教えられた内容に差がある。

「それに関しては、僕たちは教えられなかったんだ、でも、実際がどうだったかは知っているよ」

教科書以外にも学ぶ対象はたくさんあるので、教科書で学んだことを自分たちなりに肉付けしたり、削除したりしながら、自分のものにしていく過程をみんなが行っている印象がある。だから、そもそも教科書もマスコミも信じられないのだから、真実を自分たちで見分けようとしないとね、という姿勢が必要なのは実体験としてよく分かる。

「教科書を信じるな」という一言に「ちょっと待って…」と思ったのは、こういうの日本の人たち好きだろうな、と気になったからだ。

基礎学力がないと、そもそも学ぶことができない。その基礎学力、学ぶことを学ぶための場が義務教育の場だ。人間として、社会で生きていく人として、最低限の教養や知識、学ぶ方法を身につけていくための材料として教科書があると思うと、最初からこれを否定してしまうと、肝心の基礎が危うくなる。

基礎という概念がとても希薄で、多くにおいて経験主義の日本のような国で教科書を否定してしまうと、そもそもの学びの在り方自体が危うくなる。そして、世界と接点を持てる教養のない薄っぺらな人たちがたくさん育ってしまう可能性が出てくる(A国の某大統領を想像してもらえればわかりやすいですか?)。

ハンガリーの新人保育士たちの基礎力の高さは、たんに保育士養成の力だけではない。それ以前の積み重ねが、大学で学ぶことを吸収しやすく、あるべきところに収めやすくし、学んだことを出発点にして視野を広くする方法を心得ているのだと思う。

というわけで、かなか複雑な思いで聞いた一言なのでした。

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