過保護?子どもへの共感?
先週の土曜日は、三男の高校入試の全国一斉筆記テストだった。(二月には口頭試験があり、学校の成績と合わせて、入れる高校が決まる。)
家で待機する気分ではないらしい夫とともに、当日は雑誌や本を持ち込んで、高校近くの喫茶店で待つことにする。私は本とノートとペンさえあれば何時間でも座っていられるし、読まなければいけない資料があったのでこの機会に勉強しよう!と思っていたら・・・・続々と集まってくるお母さんたちのにぎやかさにあっけにとられてしまった。
と言っても、なんというのか、日本のお受験ママのような心配の仕方とはどうも違うようなのだ。夫が喫茶店で待機すると宣言したのは、緊張していた三男の状態が心配だったからだ。他のお母さんたちも同じくで、テストができるかどうかよりも、子どもたちが今どれだけ緊張しているか、不安か、そっちが心配で喫茶店に集まってきている。
テストが終わるころに高校の前に行くと、子どもを待っている親たちがたくさん集まっていた。中には豪泣きして両親に慰められている子どもたちもいた。
試験前、緊張している子どもたちを前に、試験官の先生がリラックスのために言ってくれたこの言葉。日本ではまずありえないだろうあな・・・。
「この試験が終わって家に帰ったら、お母さんたちがいっとおいしいご飯を作ってくれているわよ。今日は天気もいいから、午後からはスケートにも行けるし、テストは楽しいゲームと思って!すぐに終わるから大丈夫!」
先生のにこやかな表情と思いやってくれる気持ちに、子どもたちの緊張は、きっと少しほぐれたはず。
そして午後、バラトン湖の天然スケートリンクは、子どもたちでいっぱいだった。
子どものどこに共感し、寄り添い、どこで自立を認めて距離をとっていくのかは、日本とハンガリーではかなり違うように思う。そして、未熟な部分を持っている思春期・青年期の子どもたちを、どの程度子どもー大人と見るのか、見守るのか、援助するのか、突き放すのか。
「心」「おもいやり」がやたらと叫ばれる日本だけれど、なんだかとっても基本的なことが欠けているような気がして仕方がない。