5時ですから! 続々編
日本とハンガリー、2つの国を見ていると、いいのか悪いのか、どう判断したらいいのか分からないことがたくさんある。
例えば、「掃除」
保育園や学校が、今となってはその意味もあまり深く考えずに行っていることで、実は国民の感覚を作りあげていることがたくさんあると思う。
例えば、好き嫌いへの対応などは、見事に国民感覚を育て上げたと思う。「嫌いなものがあると、小学校に行ったら苦労する、だから、保育園で嫌いなものに”慣らして”おく」と、乳児期から子どもたちは嫌いなものと格闘することを経験させられる。そして、保育士は躍起になって子どもの好き嫌いをなくそうとし、膨大なエネルギーを使い、食事は楽しむための場所ではなくて、好き嫌いをなくすための場と化す。
もう一つ、国民感覚を育てているのではないかと思うものに、掃除がある。
「日本の本社から、従業員みんなで工場を掃除するようにという指示が入ったの。”掃除の人なんて雇わないで、自ら、働く場をきれいにするべきだ”って。」
ある日本の工場で働く友人のこの話の続きは、想像がつく。そして、その通りだった。
日本の技術者や上のポジションにいる人たちは、当然のように掃除を始めたけれど、ハンガリーの技術者人たちは”ありえない”と断固拒否したそうである。
日本でよくある、「社長自らがトイレ掃除をする」なんてことは、まずありえない。その意味を伝えても、たぶん、理解してもらえない。
(こんな時、かつおだしを「くさい」と言われるのと同じレベルで文化の違い、感覚の違いを感じてしまい、「なんて遠くに来てしまったのだろう・・・」としみじみと思うのです)
ヨーロッパでは(たぶん、ヨーロッパでは一般的に)、教育機関にはどこにも掃除をするおばさんたちがほうきとモップを持って、いつもきれいにしてくれている。だから、建物内は常に清潔だし、きれいだ。
でも、「自分たちの使う場所を、自分たちの手できれいにする」と小学校の頃から教えるのは、とっても大切でもあると思う。それは、自分のためでもあるけれど、そこを使う人たちみんなのためでもある。
ある小学校で日本語を教えていた時に教室の掃除を提案したら、「とってもいいアイデアだし、子どもたちには必要なことだと思うけれど、きっと保護者から苦情が来ると思う。中には、児童虐待だと訴える人もいるかもしれない」と言われ、確かに、と納得した。
仕事に対する感覚の違いは大きく、どんな仕事もかけがえのない、社会を構築している貴重なものという感覚は、日本にはまだまだ残っていると思うし、職業間の階層のようなものはヨーロッパほど強くはない。でも、ヨーロッパ、ハンガリーでは、「掃除」という仕事はかなり低い位置に置かれている。その掃除を子どもたちにさせるなんて!!という感じなのだろう。
ハンガリー人の家はたいがいどこもきれいだ。高価な家具や電気製品があるわけでもない質素な家であったとしても、こぎれいに掃除が行き届いている。自分たちの場所を常にきれいにという感覚は家庭で伝えられるのだろうし、常に掃除のおばさんたちがきれいにしている保育園や小学校からもその辺りの感覚は身に付けるのだろう。
でも、共通の場所を使うときの、ある種の無関心さのようなもの・・・あれは、小学校から掃除をしていればずいぶんと違うのではないかな・・・と思ってしまう。
一方で、日本の保育園の多くの、あちこちにいろんなものが積み上げられていて、子どもたちが日常生活を送る、快適で、素敵な場所ではなくなっている光景、日本の小学校の殺伐さ・・・。
それらを思い浮かべると、「公共の場を自ら掃除する」ことの大切さと、それだけでは十分ではない、公共の場のあるべき姿を伝える大人側の意識について考えさせれる。
それに、日本の保育士が昼休みの時間を使って掃除している姿などを見ると、「自分たちで自分たちの職場をきれいにする」というのとはちょっと違った、教育者としての仕事とは認識されていない現実の方を強く感じてしまう。
・・・お互いの国から学び合えることはたくさんありますね。