主体性って何だろう? その③
もう着なくなったTシャツ、すり切れはじめた枕カバーやシーツ・・・・捨てるのはもったいないな‥‥というものは、こんな風にして切って丸めておく。
そして、暇な時に織っていく。
玄関の足ふきになったり、ちょっとした敷物になったり。
布があったら、織物もできるし、パッチワークもできる、刺繡もできるなーと思うのは、そのバリエーションと方法を知っているから。それを教えてくれた人がいて、それが楽しかった経験があるから。
「まだ、布が買えないような時代は、布は貴重品だったの。種をまいて、育てて、それを収穫して、糸を紡いで、織って…・女の子が生まれたら、家の女性たちはお嫁入りの道具として羽根布団を作り、そのカバーを織り、テーブルクロスもタオルも、全部織りためていったのよ」
織り物を教えてくれたハンガリー人の女性がそんな話をしてくれた。それは、まるで昔話のようで、それ以来、布を簡単には捨てられない。それが、今は工場で作られていると知っていても。
子どもたちの目の前に「さあ、いらない布がいっぱいあるよ、何ができるかな、作ってみよう!!」と言ったら、張り切ってハサミでチョキチョキと切り始めると思う。多分、布の真ん中を。模様があったら、それを切り取ったり。
でも、たぶん、チョキチョキした後、さてどうしようかな?と考えてしまう子が多いはず。
布を目の前にして「人形の服を作ろう。人形の大きさはどれぐらいだろう?どの布ならいいかな。どうやって縫い合わせようかな。どんな道具がいるかな」と考えられるのは、それなりの基本の経験がある子たちだろう。
布は縫うこともできるし、貼り合わせることもできる。切り裂いて織ったり、染め直すこともできる・・・ということを一通り経験している子どもは、布を前にじっくり考えるはずだ。
布も誰かが作ったものだし、大切な資源だし、無駄に使ったらゴミになってしまう…と理解できるのは、それを伝えた大人がいるから。
子どもが主体的に自由に考えるにも、その基礎となるものはいる。
しっかりと考えるための基礎を身に付けられるようにするのと、知識にもならないことをただ大人がしゃべっているのを聞かせるのは違う。
大人が教えること、大人が介入することが”悪いもの””不必要なもの”とする空気も「主体性を育てる」の周りには漂っている気がする。
「主体性」を考えるためには、主体性が何で構成されているのかを知らないと考えられない。
…やっぱり、主体性は深かった…