元日に
ハンガリーで元日といえばレンズ豆。レンズ豆を食べると、その一年は豊かに暮らせるということで、朝からレンズ豆を煮る。レンズ豆のクリーム煮は美味しいけれど見かけがいかにも地味で、これを目の前にすると、クリスマスから続いていた非日常から一気に日常に戻される気がする。
「お母さんさ、日本の保育園の手伝いに行って、何でハンガリーの保育なんだって、嫌がる人とか怒る人とかいないの?」
三男の質問である。レンズ豆を食べながら、なぜこの質問が浮かぶのか。それとも、日ごろからどこかで疑問に思っていたのだろうか?
「いるよ。ハンガリーの保育に関心がある保育園に手伝いに行っているけど、保育士さんの中には、そんな保育はしたくないとか、いままでだってちゃんと保育してきた、って怒る人はいるよ」
「・・・?」(それで手伝いに行く意味があるのか、という感じの?が浮かんでいるらしい)
「でも、もし、Sの通った保育園におもちゃがなかったらどうだったと思う?クラスで、いつも誰かが怒られていたら楽しかったと思う? 1歳の子ども達が、一列に壁にペッたりくっつきなさい!って座らされているのを見たらどうする?赤ちゃんたちが自分でまだ食べられないのにご飯を前に座らされていたら?いつもいつも誰かが泣いている保育園ってどう思う?できないことを「しなさい」って言われて、できないと怒られて、そんな日が多かったら?
日本とかハンガリーとか、関係ないと思うよ。子どもたちにとって大切なことは、どこの国でも同じだよ」
そう、ハンガリーの保育を紹介はしているけれど、ハンガリーの保育をしましょう!と言っているわけではない。
とにかく、子どもたちに子ども時代を楽しく、幸せに過ごしてほしい。そして、ほんの小さなことにも楽しみや幸せを見つけられる大人になってほしい。
そのためのヒントがハンガリーの保育にもあると思う。日本の保育を”考える材料”になると思う。
どんな人と出会っても、どんな反応が返ってきても、新しく考えるきっかけになる。
いろんな人がいるし、いろんな考え方があるよね。そして、私たちは同じ地球上で、一緒に生きているんだよね。みんながより良い状態で一緒に生きていくための方法を考えだそうよ。
世界の規模でも、保育の規模でも、それがどこの国のことであっても、保育園のことであっても、社会のことであっても、考えたい根っこは同じなのではないだろうか。