ドキュメンテーション・・・

日本に帰るたびに、今、流行りの保育、というのに出会う。

最近で言えば、ドキュメンテーション・・かな?

何かとっても引っかかるなーと思いながら過ごしていたのだけれど、今日、はたと思い当たった。

ドキュメンテーションは、簡単に言ってしまえば、子どもの姿をしっかりと捉えましょう、日々の保育の連続性や変化をとらえながら保育を深めていきましょう、そのためにも、自他ともに理解できるようにきちんと記録をしていきましょう、ということなのではないかと思う。

でも、本来ならそれは当たり前のことで、保育に関してまず一番の考えたいのはドキュメンテーションをどうとっていくか、どう記録していくかの方法ではなくて、肝心の保育の中身の方、子どものとらえ方の方なのではないだろうか。

日々の保育環境(人的環境も含め)が本当に子どもたちにとって安心できるものなのか、そして、子どもたちの発達を援助するものなのか。

子どもの発達を見極める基本的な知識を、保育者自身が持っているのか。

そして、子どもたちの活動を深めていくために必要な、基本的で、そして、幅広い知識や教養を大人自身が持っているのか。

こういうところをまずは保育の基本としてしっかりと押さえて実践ができていれば、そこで過ごす子どもたちの姿を記録していくことには意味があるだろうし、その記録を分析するだけの力のある保育士たちであれば、確かに保育の向上につながると思う。

でも、もし、基本的な保育環境に課題が大きい場合、本来の子どもの姿、本来子どもたちが持っている力は発揮されないかもしれない。それどころか、大人に誤解されたままになる可能性もある。

おもちゃも十分なく、あそぶ時間も十分でない環境では、活発な子どもは”落ち着きのない”問題児となってしまう。でも、もし彼/彼女が遊ぶものもあり、あそぶための時間もしっかりと保障されている環境にいれば、”とてもよくあそべる子”と評価される。

外あそびがメインの保育環境では、ダイナミックで自由な発想が得意な子はリーダーシップをとって生き生きと過ごせるが、その子に室内あそびに必要な力も育っているかとなると、環境がなければそれをはかることはできない。逆に、室内でのあそびの方が得意な子は、外あそびがメインな保育環境では長所を見つけてもらえないかもしれない。

保育士の子どもを理解する知識が十分でない場合、子どもの解釈は薄っぺらくて平坦なものになる。

ドキュメンテーションを行うことで、本当に日本の保育の本質が変わっていっているなら、それはとってもいいことだと思う。でも…

新学期は子どもたちが泣き叫び、乳児からみんな一緒にの精神は根強く、運動会の練習光景は変わらず、日本中で同じようなテーマの絵を同じ時期に描いている・・・まずは、こういうところをきちんと考えるべきなのではないだろうか。そこをとばしていたら、結局は「誰かに見せるための保育」(保護者や外部の人たちに見せる)という点では、今までと変わらない気がするのだけれど・・どうだろう??

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