マロニエの木の下で
ハンガリーにいる時は遊びに行かせてもらっている、障碍者のデイケアー。
ここで、一週間に一回、友人が素話をしています。
「今日はバラトン湖のお話をするけど、バラトン湖行ったことある人いる?」
「バラトン湖に鳥はいた?」
「どんな鳥がいた?」
「カモメは知っている?どんな風に鳴いていた?」
「白鳥は?白鳥はいつもは静かだけど、怒るとフーッ!ていうのよ、聞いたことある?」
「どんな魚がいるか知っている?」
「鯉がいるね、他には?ナマズ?フナ? 鯉の料理食べたことある人いる?・・・」
こんな話から、魚の話になり、漁師の話になり…そして、昔話が始まります。
重度の障碍者もいるけれど、身振り手振りで答えたり、「知っている」と反応したりします。
誰かが反応すると、他の人達は驚くほど「何を言いたいのかな?」と気持ちを向けて聞いています。
そして、素話も最後まで聞いています。
きっと分からないところもあるだろうし、ちょっとうつらうつらする人もいるけれど、でも、分かる場面や知っている単語には嬉しそうにしています。でも、中には最後まで真剣に聞いていて、お話しのストーリーをちゃんと理解する人たちももちろんいます。
素話の後はドラマあそびにつながることも多いのですが、それについてはまたの機会に。
友人曰く、「分からない人が多いだろうと低く設定するのではなく、分かる人たちに合わせて設定しながら、一人ひとりに合わせた質問したり、言葉をかけたりすることが大切」とのこと。一人ひとりの顔を見ながらお話をするので、その度にぐっとお話しに引き込まれる、引き戻されるようです。
「彼らにも生きてきた中での経験と知識の積み重ねがあるのよ」ということは、恥ずかしながら、このワークショップを見て初めて理解したことでした。
障害を持っていて、決して行動範囲の広くはない人たちでも、幼児の子ども達よりも理解度が高く、いろいろな経験がつながっている人たちがたくさんいます。
「分からないだろう」じゃなくて、分からないことがあるかもしれないけれど経験の場を設け、話しかけたり、伝えていくことで、その人達なりに理解するし、経験や言葉が積み重なっていくんだなー、そのことによって、その人の世界や人間関係も広がっていくんだろうなー、子ども達にもこういうことが大切なんだなーと改めて考えさせられます。
今日は天気が良かったので、施設の庭で。
大きなマロニエの木があり、花がたくさん咲いていてとても心地のいい空間。
窓辺にもたくさん花が置かれていて、窓はピカピカで、どこもきれい!これ、誰が掃除しているんだろう…と思ったけれど、「誰がするか」だけじゃなくて、この施設に関わる職員の気持ちの部分が大きいのでしょうねー。
それにしても、障碍者のデイケア―なのに、それを感じさせないのは何でだろう?
まず、匂いがない。雑然としているところがなくて、どこもすっきりとキレイ。
これは、保育園とも通じるところで、当たり前のように清潔できれい。そして、家庭的。
私達が育てている子ども達は、大人になっていろいろな人たちと関わることになります。
お客さんを相手にする人だったり、誰かをお世話したり、何かを設計したり、作ったり、研究したり・・
皆の中に何が育っていて、皆の中の「当たり前」がどんな質なのか、それが社会全体を少しずつ変えていくのでしょうねー。良い方向にも、悪い方向にも。
子どもを育てる仕事だけど「子ども」で完結せず、社会の様々な立場の大人のことも視野に入れていかないといけないなーと思うのです。