それ、ほんとう? あそびを見守る
「十二支の運動会!」
ある保育園の1歳児クラスの子ども達のあそび。
発表会で、大きな子たちが見せてくれた「十二支」のおはなしの中の、”動物たちが走っている”と”運動会”がつながったようです。
部屋にあった十二支だけでは足りないと思った子どもたちは、ありったけのお手玉も並べて、運動遊具もすべて活用され、それこそ足の踏み場もないほどの、にぎやかな「運動会」が展開されていました ♪
(これも一種の構成あそびです)
時は、昼食のまさに直前。あそんでいる子はすぐにでも食事に呼ばれるタイミング。
担当の先生は、あららーと笑いながら、一緒に片付けていく。でも、子どもたちのあそびを楽しむ余裕も忘れていない。
年に数回、とても上手にあそびに関われる保育士と出会う。
そういう先生たちに、特に何か意識していることありますか?と聞くと、たいがい「?」という顔をされる。あまり意識していないらしい。
一つ共通しているのは、「あそびを発展させよう」とはあまり思っていないらしいということ。頭で考えないで、ごく普通の感覚で言葉をかけているというのか・・・。
例えば、子どもたちがよく作って持ってくるごはん。
(薄ピンクのお手玉が乗っている)保「今日のごはんとってもきれいね。これ、桜餅みたい」
保「かぼちゃに種入っているよ」(実際に、食材のカボチャに種が描かれている)
子ども:「種とるからまっててね。トマトにも種入っているね」(トマトにも描かれている)
子どもがトントンとまな板でかぼちゃを切っている
保「いい音がしているなー」(←誰に言っているわけでもない)
子ども:「パイナップルにも種入っているからまっていてね」
「パイナップルには種入っていないよ。しんがあるから、それはとった方がいいけど」
ごくごく自然に、言葉を口にしている。
食べ終わったら、さりげなくその場を離れて、他のあそびの場に移っていく(さりげなく離れるタイミングも、どこにどうして行ったのかも勘らしい。これを言葉にして他の職員に伝えられるようになるのが、こういった保育士さんたちの次なる課題)。
子どもたちは、大人がちょっと入ってごく普通の会話をしただけで、その場を離れてもあそびを続けている。
他の子が、「お弁当できたよ」と保育士の元にお弁当をいくつか持ってくる。
保「きれいな色のお弁当箱だね。今ちょうどお花見の時期だしね」
そして、部屋には、桜の木が飾ってある(^^
(この時、桜の木の前はお風呂になっていました)
あそびの関わり方の上手な保育士は、生活経験が豊かなのだろうなーと感じさせるものがあり、そして、よく話す。
無駄に、無意味なことをしゃべるのではなく、子どもたちのあそびを見て、そこに関連したことをよく言葉にしている。
そして、こういう保育士の元で育った子どもたちは、とにかくよくしゃべり、そして、発想が豊かだ。
「あそびを発展させよう」などとはつゆにも思っていないらしいのだが、とにかく子どもたちがよくあそび、そして、あまりあそべなさそうな子たちもそれに刺激を受けて、時間差で真似していく。
このままずっとこのクラスの保育を見ていたいなーーーと思うけれど、他のクラスも見なければならず、どちらかというと、課題のあるクラスをしっかり見ないといけないので、後ろ髪を引かれる想いでクラスを離れたのでした・・。
・・・・・・・・・・
「子どものあそびを見守る」「子どもの葛藤を見守る」とよく言われる。そして、本当に見守り、つまり、ただ子どものあそびを座って見ている保育士を見かけることがある。
保育士の仕事は、子どもたちの発達をしっかりと見極めながら、必要な関わりをしていくことだ。一人ひとりの課題を見極めようと思ったら、よほどしっかりとあそびを見ないといけない。声をかけてみたり、助言したり、アイデアを出したり、約束事を伝えたり、ちょっと遊びの場面を整理したりしていたら、とてもとても座ってなどいられない。
本当に良く遊べていて、保育士の援助などほとんど必要なくなっているクラスというのはたまにある。けれど、そこまで至るには保育士の積極的な関わりと生活全面がよほどよく考えられている状態がないと、そうそう簡単にそこまで至ることはできない。
ほどほどに遊んでいるのか、本当にあそんでいるのか、実は全く時間つぶし的な遊びなのか・・・。見極める力、つけていきたいですね。