どうしてイライラしないの?

「皆さんとても丁寧で、根気強く関わっていて…・イラっとかすることないんですか?」

ハンガリー研修で時々出る質問。

ハンガリーの乳児保育園の保育士さんたちの子どもとの関わりは、本当に丁寧。

見ていてため息が出るほど。

「丁寧とはこういうことです」という見本のような関わりで、これを見た方たちが日本に戻って職員に伝えようとしても相当苦労する。

なかなか伝わらない。

冒頭の「イラっとすることはないんですか?」という質問に、ハンガリー側は「?」となる。

「子ども達ができないことを一生懸命練習したり、覚えようとしているのに、どうしてイライラするの?彼らを手伝うのが私たちの仕事でしょ?」と。

全く持ってその通りですね。

その辺りの感覚が育っていなければ、できないことを一生懸命がんばっている子ども達に共感したり、少しずつの成長に感動したりができなければ、大人の人数がいくら増えたって、できないことがたくさんの子どもたちを相手にしてのイライラは続くはず。

ハンガリーの保育園では虐待もどきもないだろうなと思うのは、まず、気が付いた同僚や園長が許さない。

言葉づかいや態度のきつい保育士や職員がいたら、上の人がそこは指導し続ける。気が付いているのに見逃すということは、よほどのことがない限りないはず。

子どもよりも大人同士の関係を優先するということはまずないだろうなと思う。

研修の中で「指導の結果やめていく人がいたらどうするんですか?」という質問が出たこともある。それに対するトップの考えは「私たちの仕事は子どもを守ることです。仕事のできない(子どもを乱暴に扱う)人が園にいるぐらいなら、大変だったとしても少ない人数で保育をした方がいい」だった。

子どもと関わろうとする人たちが、どうして子どもに共感できないんだろう?

子どもの発達が分かっていれば、年齢的にできないこととできることぐらいは分かるはずで、そこを抑えて関わるのは難しいことではないはず。

人として言っていいことと悪いことぐらいは分かる人たちに子どもと関わってほしい。

それに、既定の人数で子どもを丁寧に見るシステムを作るのは決して難しくはない(そのシステムに園全体が慣れるのには時間がかかるかもしれないけれど)。

子どもに手をあげる、怖がらせる、嫌がらせをする、イヤな思いをさせる、悲しませる…ということと配置基準の問題をイコール(=)で考えてはいけない。

人数が少ないから手をあげてしまった、イライラしてしまった、ということを「仕方ないのかもしれない」というニュアンスで取り上げ始めたら、そういう言い訳が通用するようになる。そういう感覚が「あり」になってしまう。

監視カメラをつければ子どもを守れるということでもない。手をあげる大人は、カメラを避けて手をあげる。目に見えないような、言葉での暴力が増える。

「子どもには絶対に手を出してはいけないの、あなたより弱い人を傷つけたらいけないの、あなたは、子どもたちを守るのが仕事なの」

保育士だけじゃなくて幼稚園教諭や学童の先生たち、そして、学校の先生になる人たちにも、それはしっかりと伝えてほしい。

・・・・本当だったら、「子どもを守るのは大人の常識」になるのが理想ですけどね・・・